大日本絵画「第27戦闘航空団 アフリカ」

第27戦闘航空団は数あるドイツ空軍の戦闘機部隊の中でもとりわけ有名な飛行隊です。数多の部隊と同じく様々な戦区で大勢のパイロット達が戦いましたが、JG27を著名な存在たらしめているのはひとつの戦区、ひとりのパイロットの所為なのです。

第27戦闘航空団はその前身を戦間期に編成されていた第131戦闘航空団第I飛行隊に持ちます。他のドイツ空軍飛行隊の多くの部隊と同様、そこから組織の発展と部隊名称の変化は実に官僚的で複雑なのですが、いろいろあって東プロイセンの片田舎に配備中されたこの部隊が、歴史あるリヒトフォーフェン航空団を差し置いて第1戦闘航空団(JG1)の名をもったのは戦間期ドイツ空軍史の小さな挿話ですね。



その後の開戦、ポーランド戦を経て正式に第27戦闘航空団が発足するのですが、何の予兆か対仏戦の時期から第27戦闘航空団第I飛行隊の機体には、既に「アフリカ大陸と豹頭、原地住民」を図案化した隊章が描かれていました。また西方戦役の時期に熱烈に志願して地上攻撃機部隊から戦闘機部隊へと転属を果たしたアードルフ・ガランド大尉が、第27戦闘航空団本部付き副官として戦闘機乗りのキャリアを始めたことは記憶されてしかるべきでしょう。


バトル・オブ・ブリテンの項ではギュンター・ボーデ中尉搭乗機「白のシェブロン」劇的ビフォーアフター写真が掲載されています。不時着機が自動車ディーラーのショールームに展示されているどこか暢気な空気は東部戦線とは違うな。

大抵のドイツ空軍戦闘飛行隊の例に洩れず、バトル・オブ・ブリテン以降JG27はバルカン半島、そして東部戦線へとドイツ軍の主攻軸に沿って転戦を続けます。バルバロッサ作戦開始初日に航空団司令シェルマン少佐自らによる出撃、そして被撃墜の後消息不明と縁起でもない事件も起こりますが、やはりここまではよくあるドイツ空軍戦闘飛行隊のひとつに過ぎない戦歴です。


しかし、第27戦闘航空団が俄然世の注目を浴びるようになったのは、本書タイトルにも冠されている「アフリカ」の地に派遣されてからのことでした。戦史に明らかなように戦略的には二義的な位置を占めていた北アフリカ戦線は、ロンメル元帥麾下のドイツアフリカ軍団の活躍によって衆目の集まる土地となりました。そして彼の地の空を戦っていたJG27もまた、たったひとりの操縦士の活躍によって他に例を見ないほどの名声を得ることとなります。半世紀以上を経てなお、敬意の目と称賛の声の止まぬその操縦士とは…


「おれだよ俺、マルセイユだよ」

と、言ったかどうだかわかりませんが撃墜王「アフリカの星」ことハンス=ヨアヒム・マルセイユ大尉の活躍こそが、JG27を北アフリカと密接に関連させるほどの影響を与えていることは確かです。わずか17カ月の短期間で、以前の所属部隊を無責任さと不服従でクビになった女たらしの少尉候補生は総計157機撃墜のエースパイロット、しかもそのすべてが御し易いソ連空軍機ではなく西側連合軍機であるという、居並ぶドイツ空軍のエクスパルテンの中でも空前の数字を誇る存在へと変貌したのです。

戦時中からマルセイユの活躍はナチスドイツ一流のプロパガンダに乗せて喧伝され、戦後もハリウッドで映画化さらには日本でもマンガになったりしてます。搭乗機体も数多く模型化され、枚挙にいとまがありません。そんなマルセイユとアフリカにおけるJG27の戦闘記述が本書の白眉と言えるでしょう。イギリス第8軍総司令官ゴッド中将の搭乗するボンベイ輸送機を撃墜、中将を戦死に至らしめたのもJG27所属のパイロット達でした。


いまも昔も砂漠地帯は決して航空機の運用に向いた場所では無く、本書に収録されているいくつもの写真からは砂漠地帯に於ける苦労が伝わります。この辺ちょっとディオラマ向きかもしれないなーとか思います。マルセイユキューベルワーゲン「OTTO」も、たしかデカールが出てたりしましたね。


そして戦場にいる兵士たちよりカナダの収容所にいる捕虜の方が暮らし向きが良く見えるのは、枢軸国ではよくあること。


アフリカ敗北以降の第27戦闘航空団はイタリアに後退し、その後は地中海・バルカン半島で戦闘を継続します。しかしながらドイツの敗色は色濃く戦線は後退を続け、最終的には本国防衛と敗戦解隊という、やはりここまではよくあるドイツ空軍戦闘飛行隊のひとつに過ぎない最期を迎えます。それでもJG27第1中隊所属機には、この部隊がよくあるドイツ空軍戦闘飛行隊ではないことの証しが描かれていたのです。


機体カラーイラストには戦前、第131戦闘飛行団時代のアラドAr68Fから1945年4月のBf109K-4まで様々な機体が描かれています。しかしここは類稀なる撃墜王を偲んで「黄の14」のみを掲載で幕引きと致しましょう。

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