大日本絵画「第二次大戦のP-39エアコブラエース」

現在でこそ一連のヘリコプターやティルトローター機で有名なベル・エアクラフト社も大戦中は普通に戦闘機を作っていました。オスプレイ(ベルのティルトローターオスプレイですな)軍用機シリーズNo.33はそんなベル社が普通に作ってた戦闘機エアコブラを採り上げています。普通の戦闘機じゃねーだろ的意見はこの際却下です。

さて最強論議というのはいつの時代どんなジャンルに於いてもかまびすしいものですが、以前に「第二次大戦米軍最強戦闘機は何か」みたいな論議を目撃したことがあります。よくある話ですがムスタング派とコルセア派が双方一歩も譲らずだんだん議論はヒートアップして殴り合いすら起きそうな雰囲気の中、ワタシはひとり


「最強なのはP-39エアコブラです!!」

と、思っていました、心の中で。口には出さずに。いやだって肩身の狭い立場だったんだもん。


とにもかくにも第二次大戦米軍最強戦闘機はベルP-39エアコブラなのです。キングコブラは派生機なので、広義にエアコブラのなかまです。
※「ただしエンジンがコックピットよりも後ろにある戦闘機の中で」に限る。競争相手はカーチスXP-55アセンダーぐらいしかいない。超楽勝。


ベルP-39エアコブラはアリソン液冷エンジンをコックピットの後方に配置する独特の構造で設計された戦闘機です。重量物を空力的重心に置くことにより機体の運動性は高まり、機首部分は重武装を施しつつも空気抵抗を軽減する、理想的な外形を得ることが可能だと目されていました。1200馬力のエンジンに強力な37ミリ砲を備えたエアコブラは、有力な迎撃戦闘機としての大活躍が期待されていました。


設計段階の理想が現実に於いて達成されないのはどこの世界でもよくあることです。いざ実戦配備されたP-39はさっぱり泣かず飛ばずの戦闘機で、第二次大戦初期に投入された戦域ではさまざまな評価が飛び交いました。本書では実際にこの機体に乗って戦ったパイロットの証言などからエアコブラの赤裸々な姿を浮かび上がらせています。曰く、


「P-39は日本機と戦えるような飛行機では無かった」「この飛行機は宙返りしたら最後だという、とても飛行機乗りを喜ばせない評判があった」「ベル戦闘機よりは上昇力も運動力もいいだろうから、トラックに乗って邀撃したほうがましだ」「37mm機関砲が満足に作動したことはまったくない」「太平洋でP-39が気に入っていたのは、遭遇しても御しやすいと喜んでいた日本の戦闘機乗りだけだった」「もし、誰もお前さんを撃とうとしないし、誰も撃つ必要がないっていうなら、エアコブラは飛ばしていて楽しく、かっこいい飛行機だ」「地上滑走するとき、肘を窓枠に乗せていると、土曜の夜に並木道を流しているような気分になったもんだ」


クルマかよ。

カードアタイプの登場ハッチは乗り込みやすさから稀に採用される形式ですが、飛行中は空気抵抗でとてもじゃないけど開きません。脱出はほぼ不可能……でも大丈夫「P-39の流線型の機種と低い位置に装着された主翼胴体着陸には理想的な形だったので、コブラ胴体着陸でしくじる者はいない」ともいわれています、やったね!!


せめて排気タービンがついてりゃ対爆撃機用に活用する余地もあったんでしょうが、あいにく試作機にはついてたそれが生産型では取っ払われていたのです。低空格闘戦に持ち込めばこれがまた相手は化け物じみた零戦で、およそ太平洋ではP-39には良いところが全然ありません……主力武装の37ミリ砲も故障続出で物の役に立たず、イギリス向けに製造された機体P-400では低威力のイスパノ20ミリ機関砲に換装され、信頼性はむしろそちらの方が高かったのはなんとも皮肉な話です。しかしアメリカはイギリスにレンドリースでいろんなものを送ったけど「いらないです^^」って突っ返されたのはP-39ぐらいじゃなかろうか……バトル・オブ・ブリテンも終わった時期なんで間が悪かったのもあるんだけれど……


そんな状況だったもので、実はP-39のエースってそんなにはいません。巻末には「P-39かP-400で1機以上の撃墜をした米陸軍航空隊のエース」一覧が掲載されていますが、なんとまあたったの23人しかいません…

  「P-39が第二次大戦の米国航空兵力にもっとも貢献したこと、それは数多くの『未来のエース』たちが初めて経験した戦闘機だったということだろう」

と、本書は冒頭で述べています。なるほどP-39でのスコアがわずか1機、もしくはゼロであってさえもその後記録を伸ばしたパイロットは居りましょう。しかしそれは例えば「後にF1ワールドチャンピオンになったフェルナンド・アロンソがデビューしたチームだからミナルディはすぐれたF1チームだ」とでも言うようなもので


…いいジャン、P-39!


と、ここまではお笑いネタのような話ばかりでしたが、ここからは真面目です。本書の半分は太平洋戦域(ならびにアリューシャンとか、パナマ運河とか、アイスランドどか)での冴えない話題ばかりなのです。ここで終わればオスプレイ航空機シリーズでも屈指の「ごく薄い本」となるところですが、まだ終わらんよ、まだ!本書後半は全く趣を違えて文字通りに「空のコブラ」と恐れられたP-39大活躍の話で持ちきりになるのです。地球の反対側に合った「ベル戦闘機約束の地」その土地の名は…


 ロ シ ア で す 。


第二次世界大戦中、ソビエト連邦にはレンドリース法に基づく支援物資として合計4773機ものエアコブラが送られています。西側諸国ではおよそロクな話を聞かなかったこの機体が東部戦線では猛威を奮い、本書巻末の「ソ連空軍のP-39エース」リストは5ページにも渡る膨大な量で数えるのがイヤになるほど(笑)誇らしげに数多くの撃墜数描いた機体、派手なペイントを施した機体などソ連空軍のP-39はまるで水を得た魚、差し詰めツンドラ戦闘機がツンからドラにキャラ変したよーなもんですな。


ここまで評価が異なるのにはいろいろと理由があります。独ソの航空戦が太平洋とは違ってP-39に有利な低空を主な戦場としたこと、生産期間の後半に各種改良を受けた機体を受領できたこと、そもそもP-39の構造が東部戦線の実情に合致していたこと(例えば3点支持式の主脚のおかげで離着陸時の広い視界を取れることは滑走路の状態が劣悪なときにアドバンテージとなりました)などが挙げられるのですが、それまでのソ連の飛行機がヒドいのばっかしだったとゆーのも、重大な要素だったみたいですはい。アメリカじゃ普通の仕上げの風防でも「ウォッカの瓶の底から覗いてるような視界」のソ連機に比べたら雲泥の差。ましてや全機に無線装置完備だなんて…と必ずしもP-39に限った話じゃないのですが。


グレゴリイ・レチカーロフ少佐以下ソ連空軍のエースパイロット達。冷戦時代、まだ情報が公開されていなかった当時は大戦中のソ連空軍はエアコブラを地上襲撃機として用いたのではないかと考えられていましたが、ソ連崩壊後明らかになったのは至極真っ当に戦闘機として運用されていた実態と、、数多くのエースパイロット達です。本書では様々なパイロット達の貴重な記録が多く掲載されており、その中には連合軍第二位、59機の撃墜記録を持ちソ連邦英雄章を三度受賞したポクルーイシキン大佐や、クリミア出身タタール人、不時着したら外国人と間違えられて捕虜扱い、戦後はスターリンの民族強制移住政策で自分の家族以外は親も兄弟も全部シベリア送りになった気の毒なスルターン・アメート=ハーン大尉など他では味わえないような話が満載です。不時着して生還したパイロットでも、墜落地点が敵勢力下なら全員もれなくスパイ容疑で取り調べるなんて、フゥハハー、ホントソ連空軍は地獄ですね。


そしていつもの機体カラー塗装図ですが、これが果てしなく地味です。大戦前半、アメリカ陸軍航空隊が機体上面OD一色で塗装していた時期の戦闘機なんで仕方ないんですけど掲載されてる機体はほとんど小ぎたなあーいや、あまり美麗ではない種類のカラーリングで。


むしろイギリス空軍機迷彩の上に米国章を描きくわえた輸出(出戻り)仕様P-400のほうがなんぼかマシです。ハセガワがヨンパチのエアコブラの始めたときに、わざわざマイナーな方のP-400から始めた理由にようやく合点がゆきました。


ソ連機の方が派手なマーキングは多いのですが、基本塗装が地味な点は変わらずです。そんでこの機体、イワーン・イリッチ・ハバック大尉搭乗の「白の01」。ソ連の航空機・戦車にありがちなロシア語で大きく書かれた「マリウポリ学童献納機」の文字は、この機体を本当に献納したアメリカ合衆国納税者の善意を踏みにじる行為で


あざといさすがロシア人あざとい。


P-39エアコブラは第二次大戦に参加した戦闘機の中では決して上位に位置する性能を持っていたとは言えない機体です。しかしながら本機は大戦序盤のニューギニア島嶼地域で日本軍の侵攻に耐え、中期以降の東部戦線ではソ連軍の反抗と勝利を陰ながら支える存在でした。

素っ頓狂な造りの割には、その活躍は地味である。そこがいいのですよ…

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